長篠

長篠

Nagashino

長篠周辺の楽しみ方

長篠は愛知県東部、新城市の山あいに広がる小さなエリアです。豊川と宇連川が合流する崖の上に長篠城が築かれ、1575年にはこの地で織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼が雌雄を決しました。鉄砲と馬防柵が騎馬隊を破ったこの戦いは戦国の戦い方を大きく変えたとされ、現在は城跡が国の史跡として残ります。

位置

長篠はどこ?

長篠は愛知県の東部、新城市の北寄りに位置するエリアです。新城市の中心部からは北東に約7キロ、豊川(このあたりでは寒狭川と呼ばれます)と宇連川がV字に合流する崖の上に長篠城がありました。北には三河と信州を結ぶ古い街道が走り、奥三河と呼ばれる山あいの入り口にあたります。

行政上は新城市長篠という大字で、新城市は2005年に旧新城市・鳳来町・作手村が合併して誕生しました。長篠が含まれる旧鳳来町の一帯は、湯谷温泉や鳳来寺山など信仰と温泉の地でもあります。新城市全体としても人口の多くは南の中心市街地に集まり、長篠周辺は山に囲まれた静かな里地です。

Local transport

アクセス

長篠の最寄り駅はJR飯田線の長篠城駅です。豊橋駅から飯田線の普通列車で約70分かかります。本数は1時間に1本程度なので、行き帰りの時刻表を確認しておくと安心です。長篠城駅から長篠城址史跡保存館までは徒歩で8分ほど、城跡や合流点の崖までもすぐです。

設楽原歴史資料館は隣の三河東郷駅が最寄りで、駅から徒歩で20分ほどかかります。長篠城駅と三河東郷駅のあいだを歩いてつなぎ、城跡と設楽原を一日で巡るのが定番のコースです。名古屋方面からは、豊橋まで東海道新幹線または東海道本線で出てから飯田線に乗り換えるのが分かりやすい行き方です。注意点として、JR豊川駅から北はICカードが使えないため、乗車前にきっぷを買っておく必要があります。

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Get to Know

長篠について

長篠の見どころは合戦の記憶と、それを包む静かな里山の景色にあります。城跡から少し歩けば寒狭川(豊川)と宇連川の合流点を見下ろせ、毎年5月には合戦の戦没者を慰める「のぼりまつり」が街を彩ります。歴史を訪ねるうちに、奥三河と呼ばれるこの一帯の暮らしぶりも見えてきます。

1575年、長篠の戦い

Stone steps lead up a hill, past a large sign in Japanese marking Oda Nobunaga's battlefield headquarters and several red banners.

長篠の戦いは1575年(天正3年)の旧暦5月21日に起きました。長篠城の救援に駆けつけた織田信長・徳川家康の連合軍およそ3万8千と、武田勝頼率いる1万5千の武田軍が、城から西へ4キロほどの設楽原でぶつかった戦いです。連合軍は連吾川沿いに馬防柵を築き、その後ろに大量の鉄砲隊を配置。武田軍は何度も騎馬で突撃しましたが、柵と統制射撃に阻まれて大きな損害を出し、戦は8時間ほどで決着がつきました。武田四天王の山県昌景や馬場信春など重臣の多くが討死し、これを機に武田家の勢力は急速に傾いていきます。

Samurai in armor fire muskets in a grassy field, with smoke and flags around them.

火縄銃を持った当時の兵を再現するイベントの様子

信長が3千挺の鉄砲を三段に分けて連射させた「三段撃ち」の逸話は有名ですが、一次史料の『信長公記』にこの記述はなく、江戸時代初期の『甫庵信長記』に登場するのが初出とされます。火縄銃は装填に時間がかかるため完全な連続射撃は難しく、近年の研究では大量の鉄砲を集中配置し、馬防柵で防御を固めた統制射撃が勝因と見られています。

城跡と史料館をめぐる

A stone monument with Japanese characters on a stone base, surrounded by trees with green leaves and pink cherry blossoms.

現在の長篠城址は国の史跡で、日本100名城のひとつに数えられます。本丸跡や土塁、空堀の一部が残り、合流点へ向かって突き出した崖の地形をそのまま体感できます。隣接する長篠城址史跡保存館では、合戦に関わる遺品や文書、強右衛門の磔の図など約200点を常設展示しています。

設楽原歴史資料館

The Shitaragahara Historical Museum, a grey building with multiple gabled roofs, a statue of a robed figure, and a paved entrance path.

少し離れた設楽原の決戦地には、設楽原歴史資料館が建っています。鉄砲伝来から長篠の戦いまでの火縄銃の変遷を中心とした展示があり、馬防柵の一部も連吾川沿いに再現されています。城跡と設楽原の二つを合わせて回ると、戦いの一日の流れを地形と一緒にたどれます。

のぼりまつりと奥三河の暮らし

Several people in samurai armor stand in a grassy field surrounded by traditional Japanese flags.

のぼりまつりの様子

毎年5月5日には、長篠城址とその周辺で「長篠合戦のぼりまつり」が開かれます。戦死した両軍の将士を慰める行事で、武将の家紋を染め抜いたのぼり数千本が立ち並び、火縄銃の演武や鎧兜姿の武者行列が城跡を彩ります。

A river with rapids flows through a forested valley with buildings under an overcast sky.

長篠を含む新城市の北部一帯は、愛知県では奥三河と呼ばれる山がちな地域です。寒狭川と宇連川の渓谷・湯谷温泉・鳳来寺山などが近くにあり、戦国の物語と地続きの静かな里山が広がっています。城跡から少し川沿いを歩くだけで、合戦の派手な物語とは別の、静かな日常の時間が流れているのが分かります。

長篠城の籠城戦と鳥居強右衛門

長篠城は1508年(永正5年)に菅沼元成が築いた山城で、豊川と宇連川の合流点の崖を生かした天然の要害です。1575年当時は徳川方の奥平貞昌(後の信昌)が城主で、わずか500の手勢で武田勝頼の1万5千を相手にこもりました。籠城戦の最中、武田軍の火矢で兵糧庫を焼かれた奥平勢は、岡崎にいる徳川家康に援軍を求めることにします。そのために送り出されたのが、足軽の鳥居強右衛門です。

強右衛門は岡崎に走り援軍出陣の確約を取りつけて引き返しましたが、城に戻る途中で武田軍に捕らえられました。勝頼は強右衛門に「援軍は来ない、城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう命じます。承諾するふりをして城のそばまで連れて行かれた強右衛門は、土壇場で「あと二日か三日で援軍が来る。それまで持ちこたえよ」と叫びました。そのまま磔にされたと伝わります。城兵の士気はかえって奮い立ち、援軍到着までの2日間を持ちこたえました。

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