

千束
Senzoku
千束周辺でできること
千束について
東京都台東区に位置する「千束(せんぞく)」は、浅草にも近い下町情緒を残す地域です。日比谷線の三ノ輪駅や入谷駅などが最寄りとなり、住宅地と商店街が混在する、人々の暮らしが息づく街並みが広がっています。特に、商売繁盛の「おとりさま」として知られる鷲(おおとり)神社があり、毎年11月の酉の市(とりのいち)の時期には、縁起物の熊手を求める多くの人々で大変な賑わいを見せます。
また、この地域は、明治の女流作家・樋口一葉が暮らした地としても知られています。現在の千束に隣接する竜泉には、一葉が荒物・駄菓子屋を営んでいた旧居跡があり、彼女の名作『たけくらべ』は、まさにこの千束や竜泉のあたり、吉原遊廓の近くで生きる少年少女たちの姿を描いた物語です。
かつて「吉原」と呼ばれていた場所
現在の千束四丁目あたりは、かつて「吉原(よしわら)」と呼ばれた場所、正確には「新吉原」があった場所です。
もともと江戸幕府公認の遊廓であった吉原は、江戸時代初期には現在の日本橋人形町付近(元吉原)にありました。しかし、1657年の明暦の大火で焼失した後、幕府の命令により、当時江戸の郊外であった浅草寺裏の日本堤、すなわち現在の千束の地に移転させられたのです。これが「新吉原」の始まりです。
江戸時代最大の歓楽街
江戸時代の新吉原は、単なる遊興の場にとどまらず、江戸最大の歓楽街であり、そして文化の発信地でもありました。周囲は「お歯黒どぶ」と呼ばれる堀で四角く囲われ、出入り口は「吉原大門」一箇所のみという、外界とは隔絶された独特の空間でした。
その内部、中央を貫く「仲ノ町(なかのちょう)」通りには、春になると桜が植えられ、夜通し灯りがともる「不夜城」と称されるほどの賑わいを見せました。武士や裕福な商人、さらには文化人たちが集う社交場でもあり、ここから最新のファッションや音楽、浮世絵の題材などが生まれ、江戸の町へと広まっていきました。蔦屋重三郎のような版元が活躍し、多くの戯作者や絵師が吉原の華やかさや、そこに生きる遊女たちの姿を描き、その人気を一層高めたのです。
最上級の遊女であった「太夫」は、美貌と教養を兼ね備え、そのもてなしを受けるには莫大な富と粋な振る舞いが必要とされ、まさに江戸文化の象徴の一つでした。
吉原の幕引き
しかし、その華やかさの裏には、遊女たちの厳しい現実や、関東大震災の際に逃げ場を失った多くの遊女が弁天池で命を落とすといった悲劇の歴史も刻まれています。
約350年続いた公認の遊廓としての吉原の歴史は、昭和33年(1958年)の売春防止法施行によって幕を閉じました。
今も残る吉原の名前
現在の千束四丁目周辺には、往時の面影は少なくなりましたが、「吉原大門」という交差点の名前や、遊客が名残を惜しんで振り返ったとされる「見返り柳」の跡(現在は石碑と新たに植えられた柳があります)、そして遊廓内にあった神社が合祀された「吉原神社」などが残り、かつてこの地にあった壮大な歓楽街の記憶を今に伝えています。
一方で、現代においては、日本有数の風俗街として知られる側面も持っています。